【8031】三井物産 ~沿革

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【8031】三井物産の沿革について解説致します

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沿革

1871年(明治4年):大蔵省大輔(当時の大蔵官僚No.2)の井上馨は旧盛岡藩の豪商・村井茂兵衛から尾去沢鉱山の採掘権など私有財産権を差し押さえる、鉱山は井上馨と同郷で知人の糸商人である岡田平蔵に無利息で払い下げたうえで「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った

このことで井上馨は追及され逮捕されそうになりますが、
長州閥(井上馨は長州藩出身)の抵抗もあって大蔵省辞職のみで終わったそうです

これら尾去沢鉱山を巡る一連の出来事を尾去沢鉱山汚職事件と言います

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1873年(明治6年):大蔵省を辞めた井上馨と益田孝は岡田平蔵とともに東京鉱山会社を設立、岡田がちゃっかり手に入れた尾去沢鉱山のほかに阿仁鉱山、院内鉱山などの鉱山事業を開始する

この以前から岡田平蔵はウォルシュ・ホール商会という商社と取引があり、
益田孝は大蔵省に入る前にウォルシュ・ホール商会に勤めていたことから、
3人は知り合いだったそうです

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1874年:東京鉱山会社で鉱山事業に加えて貿易事業を開始するために岡田組を設立、岡田組設立にあたり岡田平蔵が8万円、井上馨が3万円、エドワード・フィッシャー商会が4万円を出資して資本金15万円(現在の価値で30億円程度)で設立された

エドワード・フィッシャー商会はウォルシュ・ホール商会長崎支店長だった
ロバート・ウォーカー・アーウィンが共同経営者を務める貿易会社で、
ウォルシュ・ホール商会時代にアーウィンと益田孝は知り合ったそうです

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同1874年:岡田組設立のわずか2週間後に東京銀座で岡田平蔵が変死する、井上馨と益田孝は岡田組を解散、鉱山事業と岡田平蔵が出資した8万円を岡田家に返し、以降、岡田家とは絶縁する

同1874年:井上馨と益田孝らが岡田組の残った人員で先収会社(最初は千秋社、ついで千歳社と名乗った)を設立、毛織物や銃器を輸入して陸軍へ納入する、米の売買のほかに、紙・蝋・茶・肥料・石炭・銅なども取り扱うなど、設立当初より現在でいうところの総合商社としての事業を営んだ

1875年:先収会社が大きな利益を上げたことからエドワード・フィッシャー商会から出資されていた資金を返還、先収会社とエドワード・フィッシャー商会との提携を解消する

長州藩出身であり大蔵大輔(当時の大蔵官僚No.2)を務めていた井上馨と
こちらも大蔵省幹部だった益田孝ともに明治政府との繋がりも利用した商いで
大きな利益を上げたそうです

エドワード・フィッシャー商会との提携を解消した背景には、
当時先収会社は政府米の輸出事業の独占を狙っており、
海外商社の資本提携があることがその妨げになると考えたようです

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1876年:井上馨の政界復帰に伴い先収会社は解散、そこで大隈重信と三野村利佐衛門(三井組・大番頭)は益田孝に先収会社の組織・社員をそのままに三井組内に商社を設立することを提案、三井物産を開業、同年三井組内の商事組織だった三井組国産方と三井物産とが合併

「三井組」とは三井財閥の当時の呼び名です

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1877年:西南戦争が勃発、三井物産は官軍の食糧・軍需品の調達を担い大きな利益を上げた

1878年:福岡県と熊本県に跨る官営の三池炭鉱の石炭(三池炭)の委託販売権を獲得、石炭は三井物産を通じて海外(上海、香港、シンガポールなど)へ輸出された

1888年:当時明治政府は官営事業の民間への払い下げを積極的に行っており、三井物産は三池炭鉱を455万5000円で落札した

三池炭鉱の払い下げ価格は当時としては破格の高額であり、
比較として長崎造船所の払い下げ価格は9万円だったそうです

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1889年:三井三池炭鉱社(後の三井鉱山)を設立、事務長には元々三池炭鉱で工業課長兼勝立坑長を務めていた團琢磨が就任、その後の團琢磨の活躍により三井鉱山は大きな利益を上げて三井財閥の発展に貢献した

團琢磨の孫は作曲家・エッセイストの團伊玖磨であり、
さらにその團伊玖磨の孫は現在女優・タレントとして活動中の團遥香です

團琢磨は工学者であり
岩倉使節団に同行してアメリカ留学後マサチューセッツ工科大学を卒業、
帰国後に大学で教鞭を取った時期もあるなど益田孝はその能力を高く評価していたそうです

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1920年(大正9年):綿花部を分離して東洋綿花(後のトーメン、2006年に豊田通商に吸収合併された)を設立

1937年(昭和12年):造船部を分離して玉造船所(現・三井E&Sホールディングス)を設立

1942年:船舶部を分離して三井船舶(現・商船三井)を設立

1945年:太平洋戦争終戦

1947年:過度経済力集中排除法が公布、GHQの指示で戦時に日本を生産や金融など経済的に支援しうる民間の企業の分割・弱体化がなされた(いわゆる「財閥解体」)

同1947年:GHQから解散命令を受け三井物産は解散、その後三井物産系の新会社として第一物産を設立

1949年:第一物産が東京証券取引所に株式上場

1952年:三井物産解散後にその系統にあった14社の社長が三井物産系の会社の合併と三井物産復活への合意が成された(同年にGHQによる財閥解散指令・財閥商号使用禁止令が廃止されていた)、「三井物産」の商号は合併までの間一時的に14社のうちの一つの日東倉庫建物が預かることとなった

同1952年:日東倉庫建物が三井物産系の会社の合併を前に突如として「三井物産」と商号変更

1953年:「三井物産」と商号変更した日東倉庫建物は三井物産系の14社のうちの一つの室町物産と合併

室町物産は三井物産系14社のうち特に売上高も大きく有力とされていた4社のうちの一つでした(ほかに第一物産、第一通商、日本機械貿易)

この件は「三井物産」の商号独占を目論んだ室町物産が仕掛けたものだったようです

その後、残された有力3社は第一物産の名称で合併、
第一物産と三井物産とが犬猿の仲となる中、
三井グループ各社首脳陣も加わり第一物産と三井物産を合併させようと協議を重ねたそうです

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1959年:第一物産と三井物産との対等合併が成立、旧三井物産系会社が結集した新生「三井物産」が設立された

1966年:米国三井物産設立

1967年:情報システム部門を分離してコンピューターシステムズサービス(現・三井情報)を設立

1970年:アジアで初めて開催された万国博覧会である大阪万博に三井グループ32社が出資してパビリオン「三井グループ館」を出展

1971年:アメリカNASDAQ上場

同1971年:リース事業部門を分離して三井リース事業(現・JA三井リース)を設立

1976年:東京都千代田区大手町に本店移転

1988年:欧州三井物産設立

2007年:アジア・大洋州三井物産設立

2009年(平成21年):ロシアのサハリン2で液化天然ガス(LNG)の生産開始

2014年:東京都千代田区丸の内に本店移転、一部は大手町に入居させたことで本店事務所が2か所になる

2020年(令和2年):東京都千代田区大手町の三井物産ビルに本店移転

最後に

三井物産の沿革を紹介致しました

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明治期に井上馨や益田孝によって設立された先収会社を源流として、設立当初より多角的な商事事業を展開し、明治政府との深い関係を利用しつつ海外貿易で大きな利益を上げました。

その事業は日本の総合商社の原型とも呼べるものです。

戦後の財閥解体後、旧三井物産系会社間で争いがあったものの、他の三井グループ企業の力もあり最終的には多くの会社が結集して見事、新生「三井物産」として新たな出発をしました。

現在、三井物産は日本を代表する大手総合商社として、あらゆる資源開発、加工、輸送、小売といわゆる「川上から川下まで」幅広くビジネスを展開しています。

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三井物産の事業内容に関しては現在勉強中です

いずれ事業内容に関しても紹介したいと思います

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ありがとうございました!!

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