【8058】三菱商事 ~沿革

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【8058】三菱商事の沿革について解説致します

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沿革

1869年(明治2年):明治政府の藩営事業禁止の方針を受け、土佐藩首脳の林有造(後に明治政府で逓信相や農商務相を歴任)が海運業私商社として土佐開成社を設立、土居市太郎と中川亀之助代表を務め岩崎弥太郎(三菱財閥創始者)が事業監督を務めた

1870年:土佐開成社は九十九商会に商号変更、土佐藩から藩船3隻を借り受け海運業を開始、

1871年:廃藩置県によって土佐藩官職位を失った岩崎弥太郎が九十九商会の経営を引き受ける

1872年:九十九商会は三川商会に商号変更、大阪ー土佐間航路を経営する

1873年:三川商会は三菱商会へ商号変更、岩崎弥太郎が社主に就任、大阪ー東京間航路に進出、同年に岡山県の吉岡鉱山(主に銅を産出)の経営権を取得し以降三菱は莫大な利益を得る

1874年:三菱商会は三菱蒸気船会社(三菱汽船会社とも呼ばれる)に商号変更、このころ「スリーダイヤ」が考案された

同1874年:宮古島島民遭難事件に端を発する明治政府の清国領台湾出兵において兵士や食糧の輸送を引き受けて明治政府の信頼を得る

1875年:三菱蒸気船会社は郵便汽船三菱会社と商号変更、大阪ー東京間航路の経営で競争相手だった郵便蒸気船会社が解散、郵便蒸気船会社が所有していた汽船15隻を手に入れる

1877年:西南戦争勃発、郵便汽船三菱会社は先の台湾出兵に続き明治政府軍の物資輸送を引き受ける、なお西南戦争時に郵便汽船三菱会社は政府借用金を基に汽船8隻を購入している

西南戦争における明治政府の戦費は4100万円と言われていて、
このうち三菱は1500万円を売り上げたとも言われています

当時の明治政府の税収は4800万円と言われており、
西南戦争の戦費・三菱に流れた金が如何に莫大だったかが分かります

このころから明治政府内で政商・三菱に対する批判が
明治政府内の三菱後援者と対立する者を中心に高まっていきます

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1878年:紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺される(大久保は明治政府における三菱の有力な後援者の一人だった)

1879年:事業の多角化が本格化、このころから金融業・倉庫業・水道事業・海上保険業・生命保険業などに参入

1881年:三菱は高島炭鉱や長崎造船所を購入、同年明治14年の政変が勃発し大隈重信が明治政府中枢から追放された(大隈は明治政府における三菱の有力な後援者の一人だった)

ちなみに高島炭鉱から採掘された石炭を海外へ輸出する責任者に就任したのが
ジャーディン・マセソン商会に勤務した後、その長崎代理店であるグラバー商会を設立した
トーマス・グラバーです

トーマス・グラバーと岩崎弥太郎の出会いは弥太郎が土佐藩開誠館長崎出張所に赴任した1867年(慶応3年)まで遡ります

ちなみに設立当初のジャーディン・マセソン商会の主な事業は
イギリスと清国の間の茶の貿易とアヘンの密輸でした

グラバー商会は倒幕運動で中心的な役割を担った薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩に
武器や艦船を売って利益を上げようとしたところ日本国内の戦争が短期間で終結し
大量の在庫を抱えて倒産したそうです

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1882年:三菱の海運業独占を快く思わない井上馨(三井物産の源流である先収会社を設立)・益田孝(井上馨とともに先収会社を設立、後に三井物産初代社長)・渋沢栄一(大蔵官僚で後に実業家)・井上弥二郎(後に内務相)・榎本武揚(海軍中将・逓信相・農商務相・文部相・外務相を歴任)・浅野総一郎(浅野財閥創始者)らが三菱に対抗する海運会社設立を画策し共同運輸会社が設立された

1885年:岩崎弥太郎が死去、三菱の事業は弥太郎の弟である岩崎弥之助が引き継ぐ

同1885年:岩崎弥太郎の死去をきっかけに明治政府の働き掛けもあり郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して日本郵船会社(現・日本郵船株式会社)が設立、このとき三菱は海運事業から撤退、三菱社を設立して鉱山事業・造船事業・倉庫業・不動産業・水道業・金融業を展開していく

1893年:三菱社は三菱合資会社へと改組

1918年(大正7年):第一次世界大戦を契機に取り扱い品目数が飛躍的に増加した三菱合資会社は各事業部門を会社として独立させており、その流れで三菱合資会社営業部門が総合商社として独立して三菱商事が設立された

1945年(昭和20年):太平洋戦争終戦

1946年:GHQによる財閥解体によって三菱商事が解散、174の会社に分裂させられた

1952年:サンフランシスコ平和条約が発効、分裂していた会社が次々と合併し不二商事・東京貿易・東西交易に集約される

1954年:旧三菱商事の清算会社だった光和実業が三菱商事へと商号変更、不二商事・東京貿易・東西交易の3社を合併して新生「三菱商事」として復活、同年東京証券取引所・大阪証券取引所に株式上場

1967年:三菱商事初の経営計画を発表

1986年:経営計画「K-PLAN」を策定、売上高よりも収益重視の会社方針を徹底する

1998年(平成10年):経営計画「MC2000」を策定、事業の選択と集中・戦略分野の強化・顧客志向重視の方針を打ち出した

2001年:経営計画「MC2003」を策定、バリューチェーンの拡大・収益力強化と新規事業創出を重点施策とする

2013年:「経営戦略2015」を発表、2020年ごろに向けて非資源分野の安定を高めるようなポートフォリオ構築を目指す

最後に

三菱商事の沿革を紹介致しました

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明治期に海運業を営む土佐開成社を源流として、明治初期の戦時の物資輸送で莫大な利益を上げたことがその後の飛躍の基礎となりました。

第一次世界大戦を契機に取り扱い品目数が増加したことで独立した営業部門が三菱商事となりました。

戦後の財閥解体の煽りで三菱商事は解散させられますが、サンフランシスコ平和条約発効後は速やかに分裂した会社を集約させわずか2年で三菱商事を復活させました。

現在、三菱商事は日本を代表する大手総合商社として、あらゆる資源開発、加工、輸送、小売といわゆる「川上から川下まで」幅広くビジネスを展開しています。

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三菱商事の事業内容に関しては現在勉強中です

いずれ事業内容に関しても紹介したいと思います

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ありがとうございました!!

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